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松井孝治参議院議員政策対話シリーズ 福祉編

「チャレンジドを納税者にできる日本を目指して」

プロップ・ステーション 竹中ナミねぇ講演 2


ナミねえ講演続き  

< 価値観の転換 >  

大変アナーキー(はちゃめちゃ)なナミねぇでございましたけれども、価値観がガラガラと崩れているぐちゃぐちゃの世の中で何でもあり、と言い切っているわけです。

私、赤ちゃんが生まれた時に、普通なら赤ちゃんはおかあちゃんにしがみつきおっぱいを吸うわけですが、皮膚の接触障害もあったので抱くことも拒否するんですよね。

それで、価値観、既存の考え方がガラガラと崩れていったわけで、こういう長女を育てたこの経験は、私にとって新世界。別転地でした。

それでもそんな人間が幸せになるのもありかなと、そうでなければ父ちゃんは孫連れて死によるしなぁ・・・みたいのがあったわけですよね。  

ただチャレンジドやその周りが幸せになるのは、これは一人では絶対できないこと。いろんな人と気持ちをあわせてやらなければならない。しかもそのチャレンジドだけでは無理、福祉関係者だけでも無理ですよね。

例えば、働くこと一つとっても制度の問題もあれば働く人を雇う企業、役所、会社、との連携で、様々な生き方、様々な職業、様々な働き方を、人間が自分で選択し選び取りながら、生きていくことができるように、可能性をたくさん提示しないといけない。

「これだけがあなたの幸せでしょ」と押し付けられるのはだめなんですよね。それだけが幸せだったとすると、私は本当に不幸な母になってしまう、ということは自分自身が価値観を転換する必要があったわけです。  

<現場から政策を伝える>

幸いに、時代が変わり目。

このままじゃいけない、大変やなぁ困ったなぁ、どうにかしてくれと思っている人がどれだけいるか分かりませんが、

政治家よ、早く価値観を変えて!

(政治家だけが変えるのではないのですけれども)、

一人一人が政治をやっているその場その場で、変わってほしい。  

そして、それをバッチをつけてやっている人もいる。私のように現場で政策をやっている者もいて、ただ、議会制民主主義ですので最後はバッチつけて、議会に提案をして、そしてそれを実行するのは役所の人ですから、そうと考えると、いわゆる福祉関係者、障害者関係者だけで考えたのではだめなんですね。  

<私を超えないと〜〜!>

私はコンピュータを使って、幅広い方々とお付き合いをさせていただいてきています。

実は私は、コンピュータをちゃんと使えないんです。いまだにできない。10年活動してきて未だに一本の指でキーボードを打っているのは私だけ。重障の皆さんも半年か一年で確実に私を追い抜いていきます。  

ですからうちのセミナーを受けても、ナミねぇを越えられなかったらムリだとあきらめていただいたほうがいいかなぁ(笑)。  

セミナーを受けに来られるチャレンジドの方々の情熱は違いますもん。

だってね、私ね、見えるでしょ、聞こえるでしょ、しゃべれる、動ける、心臓にコケが生えているんですよ。コンピュータなくたって生きていけますやん。  

<コンピュータが分身!>

だけどチャレンジド、彼ら一人一人はこの道具を使うことで、自分自身を社会へ発揮できるし、世の中とつながろう、これで稼いでやろうという想いが、私の何倍も何倍も強いわけですよ。  

そうすると吸収の度合いが違うんですね。本当にコンピュータってすごい。車椅子をスニーカーという言い方をよくするのですけれど、コンピュータはほとんど五感の延長線上、脳みその一部ですね。  

ビデオの中では肢体不自由な方が中心に出てこられていましたけれども、もちろん全盲の方、聞こえない方、知的なハンデの方、精神の方も、いろんな方がいらっしゃいます。

<どこもタテ割り社会>

プロップを、どうしていろんな障害を持った人の勉強の場所にしたかというと、一つは私自身が障害のデパートの子のおかあちゃんだった。もう一つは、世の中は縦割りってよく言いますやん。役所、企業。  

でも実は福祉世界もめちゃくちゃ縦割り。視覚障害グループでも、先天の方、中途の方、弱視、そのグループ別々に行動されます。仲の悪いグループ同士もあるんです。視覚障害グループとして手をつないで一緒にやらない。車椅子グループだって・・・・・。いろんな理由で車椅子に乗っている方が車椅子どうしでさえ連合しない。  

その障害の種類によって「私が一番大変です」と運動されているんですよね。これでは「手をつないで運動してください」と言ったって無理じゃないか?  

<目的・使命>

私は、いろんな障害を持った子供の親で、

「あなたは知的障害の親の会なのか?肢体不自由な方の親の会なのか?」

と聞かれるが・・・私にとってはどっちゃでもいいんですよ。  

世の中(社会)から見て、障害という線を引かれている状態を見て、何とかできひんかと思っている時に、こっち側も縦割りでいいんだろうかと疑問がありました。  

そこで、  

  • このプロップ・ステーションは「目的」で集まろう。  

  • あるいは「ミッション」であつまろう。  

  • パソコンという道具を使って、人の力をかりながら自分を世の中に表現していこう、

その考え方で集まろう。

障害の種類、年齢、性別、そういうもんは一切取っ払って、目的で集まろうとはじめました。それでいろんな人が集まりました。    

<私の翼はマウス>

先ほどのビデオに「マウスに翼がついて、羽ばたいていく」アニメーション出てきましたね。あれは吉田幾俊君という40歳の重度の人が書いたのですが、あのアニメーションは彼らの思いをとてもよく表しています。

マウス一つで自分が羽ばたいていく。  

彼は、とっても絵が好きな子ですが、脳性麻痺独特の硬縮で手足が動かないんですね。唯一右手が動くんです、これも独特の症状でものすごく手が揺れるわけですよ。じっとしていることできない。ですから自分の頭の中にこういう絵が書きたいといろんなイメージが浮かぶにもかかわらず、直線もかけなければ丸や四角もきちっとはかけない。  

私が彼と始めて出会った時、彼は、紙を床に敷いて、鉛筆やクレパスで覆いかぶさるようにすごいシュールな色使いで絵を描いていらした。それで「やるなぁ、おどろおどろしいなぁ」と感じました。彼は、「自分の精神に肉体が箍(たが)をはめている。自分の精神はこの箍(たが)を外したがっている」、言語障害もひどいのですがたどたどしく言った。  

つまり自分の心の中には、もっといろんな模様、書きたい絵、幾何学的な模様が浮かんでくる。でもそれを体が阻止する。自分の精神を外に出せないんだ、と言われたわけですね。  

「そうか、でも君絶対描けるからな、君絶対描けるからコンピュータやってみ。稼げるようになるで」、そういうたら、

「うそつきー」とその時彼は言ってました。

そして、いまは、もうすごいアーティストですわ。彼を指名してお仕事きますしね。彼が勉強を始めた時が30何歳でいま40数歳です。  

<足で作ったカレーは天下一品>

それからコンピュータを足で教えてるおっちゃんも出てきていたでしょ。彼はうちの第一期生なんです。同時にプロップ立ち上げの前からの長いお付き合いです。うちの娘のことなんかもあのおっちゃん知っているんですわ。だから、あのおっちゃんは私の一こ(才)上。言いたくないけど54〜5歳なんですよ。  

彼は10年前うちで一期生で勉強始めたので、なんと44〜5歳でコンピュータをはじめはったわけです。ポリオで両腕が全く使えないんですが。足の達人でしてね。印刷屋さんのリーダーで、コンピュータのない時代に、足で写植の字を拾って仕事をされていました。

「あんたすごいなぁ、ちょっとコンピュータやってみ」と声をかけたわけです。  

彼は二つの理由でプロップに来ました。

一つはですね、印刷業はこれからコンピュータ化してくる。もう写植ではないだろうと彼も感じていたわけです。だから自分がまず教わって仲間に教えて、自分たちの印刷屋をコンピュータ化していくのが一つの理由でした。

もう一つは母ちゃんと二人暮しだったんです。そのお母さんが歳を取られて、だんだん弱ってこられた。だから将来自分が母を介護するので、在宅で仕事をしたい。  

すごいですよね。私もびっくりしました。そうそう、彼ね、あの足で料理うまいんですよ。ジャガイモ刻んで、たまねぎ剥いて、カレーなんかそれはそんじょそこらのカレー屋さんは、はだしで逃げ出す。スキーできるしね、普通スキーなんかストックなければできないでしょ。水泳なんかも。すごいんです。スポーツ万能なんですよ!  

<足が先生>

本当に一人一人の中に力が眠っている。彼も、それから先ほどの幾くんも数年勉強されてプロです。うちのメイン講師です。足でパソコンを操る彼は、すごい人気あるんですよ。性格もおっとりしてはってね。  

街で、まったく手が動かない人と出会ったら、可愛そうやなと思ってしまうじゃないですか。  

ところがプロップに勉強に来てみて、「コンピュータはむづかしいなぁ〜」と思っていると足がにゅっと出てきてね。「はいはいは〜い」と。「おお…足使こうて教えてくれるぞ」と。言葉で言うノーマライゼーションなんてクソ食らえね。 一回研修に来て彼から習ったら、「あぁぁぁぁ〜!」見たいなもんです。そういう現場を、思いっきり作って、たくさん見てもらおうとセミナーを開いています。  

<マイクロソフトも変えられた>

プロップに全盲の青年がいました。昔のパソコンはウイドウズの前はDOSといって、英語数字の混じった命令コマンドを書き込んでいたんです。コンピュータの敷居が高かった時代です。いまは敷居が低くなった、誰でも使えるようになったんです。でも、敷居が高かった時代には全盲の人にとっては、これが仕事のツールだったわけです。文字は全て音声になって出てくる。当時からワープロでも音声ワープロがあって使っていたんですね。だからプロップの中にも何人か使っている人がいました。  

<健常者に便利になったら全盲の仕事がなくなった!>

ところがウインドウズになって、マウスでしょ、矢印でしょ、カーソル合わせてクリックでしょ。見えないんですよ。瞬く間にウインドウズがシェアを広げました。  

プログラムの仕事を彼らができない状況ができてしまったわけですよ。プロップはいろんなメーカーと連携して出発していましたから、これ大きな問題だな、何とかならんかなと。  

確かに大半の人には便利だけれども、これによって不便どころか、その仕事ができない人までが生まれちゃってどうすんねんと。

<ウインドウズを使えるようにする!>

そうした時に細田和也君という全盲の大学生が、

「自分は、マイクロソフトのウインドウズを、全盲やその他のチャレンジドの人が使えるように開発したい」といった。  

「自分たちの使えないOSを作ったマイクロソフトはつぶれろ、敵。DOSに戻せ。DOSやったら自分は働けたんや」と、彼以外の全盲の人たちは言った。

ところが細田君は、

「それは違う、たくさんの人に便利になり、それを自分たちだけが不便になったのを便利に戻せって言うのは、今まで自分がやられてきたことを言い返すのと一緒や。これじゃ勝負にならない。だから自分はウインドウズが使えるようにしてみたい」。  

彼は、コンピュータ天才みたいな人です。1歳半の時に目のがんになって眼球を摘出して、一切見えない。光覚もない。でも、なんと自分で秋葉原に行って、部品を自分で買って、ハンダ付けして、自分でパソコンを組み立てる子だったんですよ。  

<見える人は不便やなぁ>

彼の家に行ったことあるんですよ。カチャカチャカチャとキーボードをいじっているんだけれどCRTがないの。音声の装置はあるんですよ。画面がないから私には何をやってるかわからないんですよ。それで

「ちょっとあんた何やってるのか?、やって見せてくれているのはうれしいんやけど、画面がないからわからへんやんか」と言うたら、彼ふすまを開けてCRT出して

「見える人は不便やなぁ」などいいながらね、線つないで見せてくれました。  

実は英語版のアメリカ本国で使われているwindowsは音声で使えるのね。日本は日本語変換があるでしょ。あれで技術がストップしてしまったんですよ。ところが日本語変換を入れてウインドウズが動くようにするには何千万とか億のお金がかかる。企業は二の足を踏んでいるわけですよ。わずかな人のためにそんなお金をかけては出来ない・・・と。ところが彼は英語版のウインドウズを使って英語版の全盲の人が使えるものを体験していたわけですから、「絶対日本でできる!」と。  

<全盲のプロです>

そこで私はマイクロソフトの社長に会わせたわけです。そしたら二人、えらい意気投合しましてね、マイクロソフトの社長が

「僕はソフトウエアを作るプロだ」というと、

「僕は全盲のプロです」と。

「お互い手を組みましょう」という話になって、彼は学生の身ですぐにマイクロソフトとコンサル契約を結んだんですね。  

で、大学卒業したととたんにマイクロソフトの正式に技術社員として採用され、いまも調布の技術センターで働いています。そして彼は海外のアクセシビリティ情報などを翻訳をしてマイクロソフトのコーナーに乗せた。マイクロソフトはこれまでユーザーの相談に不親切だったんですが、彼が勤めるようになってからがらっと変わりました。すごい真剣にそのことも取り組むようになりました。  

ついにマイクロソフトとIBMと彼とが組んで、去年(2001年)の春にウインドウズを完璧に音声で扱える「JAWS」というソフトを開発発売されました。  

今では、「JAWS」を使う全盲の人たちがメーリングリストを作って、使いやすさ、こういう使い方ができた、いろいろ議論しています。たった一人の全盲の青年がマイクロソフトを動かすことだってできるわけです。  

私の目の前で刻々とそういうことが起こるわけです。  

<うちの子には無理無理>

知的ハンデの人たちや作業所のお母さんたちにパソコンをお勧めした時、はじめは皆さんこう言われるんです。

「あれはね、知的ハンデのない人たちの道具、うちの子達は無理」。

「何で触らせても見ないのに無理って言うの」、

「いや、無理無理。それにあんな高いもん潰されたら大変やもん。無理」って。

「そんなん、投げて放らん限り大丈夫」

「いやいや・・・」てね。  

ところがいま、パソコンも安くなりソフトもいろんなソフトが生まれ、簡単にお絵かきあるいは鼻歌みたいに不思議なメロディー、「あの子鼻歌、ちょっと変わってるやん」っていうのを、マイクで拾ってそれがちゃんと五線譜に出るようなソフトだって出てるんですよ。ボタン一つでなんだってできるソフトがいろいろできてるし、私たち自身もそれを開発しているんですね。最重度の障害の人が楽しめるソフトもどんどんできているんです。  

<プロになれない理由>

「うちの子には無理」といっていた知的の人たちが家族づれで、プロップに習いに来てくれるようにもなりました。いま、作業所とか福祉就労というのが主ですけれども、なかなか本当の働く場所になっていかない。  

プロップでは障害を持った人たちをプロにするために、何をしたかというと、私はコンピュータできませんから私は教えません。私ができることは、勉強できる場所を提供してくれる人を探し回り、パソコンやソフトを提供してくれる人に、声をかけまくる。  

それから一流の技術者を講師に引っ張ってくること。趣味程度の人に習ったんでは趣味程度にしかならない。一流の人に習って始めてプロになる。これはクッキーづくりでも何でも一緒なんです。別にパソコンに限らない。  

しかし、作業所、福祉就労になると指導員が何かを習いに行って、習得してそれを作業所の人たちに教えることが中心になっているんですね。ですから、プロにはなれない。

発想を切り替えたらどうですか?と提案しています。  

<しほちゃんの部屋>

ですから、重度の身障の人が知的ハンディの人を教えたっていいんですよ。私の娘はパソコンは何のことか分かりません。キーボードの上によだれをたらすか、画面の端っこを齧るかぐらいしかできないんです。  

しかし、全ての人がパソコンを使えなくっても、その子がこんな子で、こんなことできて、こんなことやりたがっているということを発信(インターネットで)する道具にすることはできるんです。  

作業所のみんなでおいしいクッキー作っている。クラブをやっているとか。お絵かきはじめましたとか。  

誰かが、それをパソコンを使い発信をしてくれたらいいんですよ。  

お母さんと一緒にホームページ作りを習いに来られた方は、作業所で「さおり織り」をしている。彼女は自分の織った「さおり」をデジカメで写すのです。・・・写すってことはかなり重度の方でもできるんですよ。その写真をパソコンに取り込んでホームページに上げるっていうのは、あっという間の作業なんです。  

お母ちゃんはホームページが簡単に作る方法を習いました。彼女は自分が作った「さおり」のベストをデジカメで取って、「しほちゃんのベスト」ってワープロでゆっくりゆっくりタイプする。そして親子で「しほちゃんのさおりの部屋」というホームページを作っちゃったんですよ。で、その後は、500円で買ってとか、せりしてとか、なんでもいいですやん。  

だからコンピュータっていうとなんとなく機械やし、冷たい箱やし、難しいし、勉強しなあかんと思っておられるかも分からないですけれど、  

私みたいに口と心臓のおばさんと、

コンピュータのすごい技術の人と、

やりたいという人が揃えば、

なんでも出来ちゃうんですよね。

要するに発想の転換です。

そういう風なことを10年以上やってきました、おかげさまで。  

<プロップは実験プラント>

最初ね「納税者」っていう言葉を使っていて、福祉関係者の人からのお怒りが大きかったです。福祉は税金をどれだけとってこれるかなんやと。それを税金払えとはなんちゅうことや、というご意見もいただきました。  

また、私たちはコンピュータのセミナーで、日本で最初に勉強されたチャレンジドから、一般の教室みたいに高くはないですが、受講料をとりました。

これも非難がありました。お前障害者から金取るらしいやないか?というのがありました。だけれども、自分がお金や時間のリスクを負わずに勉強したって、絶対物にはならないです。  

冷静に考えてみたら皆さんもお分かりになると思うんだけれども、それまで日本は障害者から1円も取ってはいけなかったんです。  

10年後の今は全国各地でチャレンジドのパソコン教室が開かれているんですが、資料代500円、一回受講料1000円など、自己負担が当たり前になってきました。10年で変わってきたんです。  

その代わりチャレンジドは、自分の技術を磨こう、仕事ができるようになろうと、本気になっています。こういう世の中に変わってきたわけですね。   

失われた10年っていいますけれど、私たちにとっては非常に豊かな蓄積の10年でした。これまでやってきたことが、これから「制度」や「法律」になり、そして、社会の元気にもつながっていって、一人ひとりが誇りを持って生きられるようになって欲しい、それを他力本願ではなくて、みんな一人一人でやれるのではないだろうか、と方向性が見えてきたのではなかろうかと思います。  

私たちNPOの現場はやはり実験プラントですね。  

<制度への道>

最終的には、それを制度にしようと思った時に、やはり議会に通さなければいけないんですが、じゃあどんなものを通すのか、やはり現場がないとだめ。  

こういう風にして、こういうプロセスを踏んで、この子がこうなったんだよ、という事例を、どれだけ自分たちで生み出せるかなんですね。  

そしてその事例をきちんと情報公開できるかなんですね。これができれば政策に落とし込めるのです。  

今日は松井ちゃんや、若い議員の皆さんが、私に話をする機会を与えてくれたことを大変感謝しています。  

では、一旦、この辺で私のお話は終わりにして、このあとパネルの中でお話していきたいと思います。どうも皆さんありがとうございました。(拍手)

つづく

この講演記録は、松井孝治参議院議員とプロップ・ステーション竹中ナミさんのご好意により掲載させていただきました。感謝。

竹中ナミねぇ講演No.1 No.2 No.3パネルディスカッションに続く

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