やまのい和則の目指す 「21世紀の政治」 |
不況は長期化し、失業者や自殺者も増えています。老後の不安も高まり、貯蓄が増えています。このような雇用や老後の不安、つまり、先行きの不安が、貯蓄を増やし、消費をにぶらせ、景気の回復を遅らせています。 一方では、青少年のいじめが増え、毎日のように青少年による犯罪が報道されています。社会がすさんでいます。 通勤時間、労働時間は世界一長く、「世界一勤勉」と言われる日本人。このような国が、なぜ、いま活力を失い、すさんでいるのか。 (財)松下政経塾での私の恩師であった故・松下幸之助氏は、「政治を正さなければ、日本は良くならない !」「このままでは日本の国が沈没してしまう!」という危機感から、一九八○年に松下政経塾を設立しました。まさに、今、この国の舵取りが間違っているのです。 以下、二一世紀の日本を活力と温かさのあふれる社会にするための政策を書かせて頂きます。これは、私の「世直し」への思いであり、同時に、民主党の政策です。 お目通し頂き、ご指導・ご叱正頂ければ有難いです。
日本の政治の諸悪の根源が、行き過ぎた中央集権です。現状では、国が二、地方自治体が一の割合で自主財源を持っています。これを逆転させて、国が一、地方自治体が二、自主財源を持てるようにせねばなりません。 私は国会議員になって、中央集権の問題点を痛感しています。予算の時期になると、議員会館は全国の地方自治体の市町村長さんなどの陳情団で満員。大蔵省や建設省などの中央官庁もそうです。地方から東京に頭を下げて予算の陳情に来る。
ある町長さんは、「省庁の担当課に挨拶に行く。名刺を置くだけのところも多く、行っても意味がないことはわかっている。けれど、もし挨拶に行かなかったら、それが理由で予算がつかないかもしれないので、行かざるを得ない。国会議員の議員会館にも挨拶に行かざるを得ない。そうしないと、『あいつは俺の頭越しに省庁に行った』と怒りを買い、 『それなら勝手にしろ。予算つけてやらないぞ』となる。こんなムダなこと、本当はしたくないんです」と嘆いています。 こんな中央集権の国は、先進国で日本しかありません。 そして、ここが国会議員の腕の見せ所と言わんばかりに、国会議員が官庁に口利きをして恩を売り、その見返りに「次の選挙は私をよろしく !」と頼む。その結果、「強い国会議員を出した地域ほど、国からの補助金が多くもらえる」ということになり、政策や日本の将来のビジョンはそっちのけで、地元への利益誘導一色の選挙や政治になっています。こんな政治のあり方が、地方に活力をもたらすはずがありません。 財源と権限を大胆に地方自治体に移し、国の権限を外交やマクロの経済政策などに制限すべきです。 そうすれば、「地域にはそれほど必要ないが、国から補助金がもらえるから」という理由で行っていたムダな公共事業をなくし、地方自治体が知恵を絞って、本当に必要な公共事業だけを効率的に行います。さらに、地方自治体の首長さんや職員さんも、やる気が湧いてきます。そもそも「住民の身近なところに、財源と権限を !」というのが、民主主義の大原則です。
私は、「国のかたち」を変えたいと思っています。「国が上で、地方自治体が下」というようなゆがんだ国のかたちを変えたい。国と地方は。パートナーです。 福祉や教育や環境など生活関連の行政は地方自治体が主役になる。国は外交、経済政策、年金など、地方自治体ができないことに限る。国会や中央官庁は、住民から最も遠いわけですから、住民に身近な地方自治体が多くの権限と財源を持たないと、住みよい社会がつくれるはずがありません。中央集権というシステム自体が、大きなムダな公共事業を生み出す根源なのです。
故・松下幸之助氏は、「地方自治体には自治体経営の視点が必要だ。いまの政治家にはあまりにも経営感覚がなさすぎる。人のお金(税金)だと思って、ムダ使いがひどすぎる。このままでは日本は財政破綻する。経営感覚のある政治家を育てたい」と言って、松下政経塾を設立しました。この一九八○年の言葉が、二〇年経った今日、ますます説得力を持っています。 地方自治体に、自主財源と権限が増えれば、地方自治体の首長さんや職員さんも「自治体経営」という観点で仕事をできるようになります。ムダな公共事業はなくなります。「どの事業をすれば、国から補助金がもらえるか ?」と、国の顔色をうかがう地方行政から、「どの事業が住民の希望が強いか?」と、住民主役の地方行政に変わります。そして、このような「住民が主役のまち ,つくり」を国や国会議員が、後方から支援するというのがあるべき姿です。このような「地方分権」いや、「地方主権」の政治を私は実現したいのです。
でも、このような大胆な地方分権すれば、一番困るのは、国会議員かもしれません。国の補助金を選挙区一地元一に配るのが今までの国会議員の仕事。国の財源や権限が減り、地方自治体の財源や権限が増えれば、国会議員の出番、いや、権力が減るのです。選挙の際の「応援しないと地元に予算をつけないぞ !」という「おどし」がきかなくなるのです。でも、いいじゃないですか。国会議員は、地域(地元一のためにも精一杯働きますが、もっと国全体のことに重点を置いて仕事をするようにすればよいのです。そもそも本来、国会議員の仕事は国の舵取りであるはずです。 国の繁栄なくして、地方の繁栄はありえないのです。
いま日本は、国と地方をあわせて六四五兆円もの借金を抱えています。国際的な信用も低下し、金融が暴落するのも時間の問題とさえ言われています。 なぜ、こんなことになったのでしょうか。答えは簡単。景気回復のためという大義名分のもと、実際には、選挙対策として、一九九〇年代に国債を乱発し、バラマキの公共事業を増やしたからです。 世界の先進国で、景気対策のために、バラマキの公共事業を増やしている国は日本だけです。これは、一時的な景気回復のカンフル剤になっても、根本的な解決策にならないことは周知の事実です。本当は、九〇年代には、二一世紀に向かった産業構造の転換を行い、国際競争力をアップさせねばならなかったのです。 子供や孫の世代から借金をし、政権維持の選挙対策のために、バラマキの公共事業を行っている現状。一〇年後、二〇年後に子供たちの世代から、「なぜ、日本の税金はこんなに高いの ?」と聞かれたときに、「九〇年代に選挙対策で、バラマキの公共事業を乱発したからだよ」と説明できますか。子供たちに夢や希望を残すのが、政治家の責任。子供たちに借金の山を残す政治はもうやめましよう。 自分たちの選挙のために、国から地元に国会議員が補助金を持ってくる。この構図を変えない限り、ムダな公共事業は減らず、財政再建はできません。財政再建のためにも、大胆な地方分権が急務です。
私たちは、財政再建のために、一つの原則を打ち立てる必要があります。それは、「景気対策のための公共事業はやらない」ということです。道路や鉄道や下水道の整備などを含め、必要性の高い公共事業を急いで行うのは当然です。しかし、それはあくまでも、「必要性が高いから」であり、「景気回復のために、必要性が低くても、何でもかんでも公共事業をやって仕事をつくろう」という時代は、もう終わりにせねばなりません。 その意味で、私は、「福祉型公共事業」は「一石四鳥一の効果があると思います。まず第、に、介護保険が始まりましたが、必要なサービスが足りず、老人ホームなども待機者が多く、希望の老人ホームも選べないという現実があります。老人ホームやグループホームを増やしたり、ホームヘル。ハーや介護職員を増やすことは、老後の安心を高め、「必要性の高い」公共事業と言えます。 第二に、このような「福祉型公共事業一は、従来のダムや干拓などの大型公共事業よりも、経済波及効果が二倍高く、雇用効果も約一・四倍高いことが研究調査で明らかになっています。さらに、「福祉型公共事業」のほうが、地域にお金が直接落ち、雇用が発生するので、地域経済の活性化につながりやすいのです。 第三に、いま、過疎化で苦しんでいる町村は、高齢化も進んでいます。それらの町村に工場誘致をするのは至難の技です。つまり、過疎の町村は、同時に、介護問題が深刻化しているのです。「福祉型公共事業」は、過疎の町村により必要性が高く、そこに雇用を生み出し、地域経済を活性化させます。
第四に、日本全体を考えても、いま日本で一番お金をもっている高齢世代が「老後の不安一を理由に、貯蓄に励んでいるのが、消費と景気が低迷する原因です。「福祉型公共事業」の推進により、老後の不安がやわらげば、高齢世代も消費をしゃすくなり、景気の回復につながります。つまり、老後の安心が、景気を回復させるのです。 福祉充実により、社会の安心感を高めることが、回り道のように見えるかもしれませんが、一つの根本的な景気の回復策です。
いじめや青少年の犯罪が深刻化し、社会がすさんできたように思います。人間と人間は、時には、競争し、お互いが切瑳琢磨することも必要です。勤勉に働かねば、国際競争力を維持することはできません。しかし、あまりにも競争社会が行き過ぎると、「人間の敵は人間だ」というギスギスしたすさんだ社会になってしまいます。今こそ、「人間と人間は本来は、お互い助け合うものだ」ということを再認識する必要があります。 競争社会が行き過ぎると、「他人の不幸は自分の幸せ。他人の幸せは自分の不幸一というような風潮になりかねません。しかし、「他人の悲しみは自分の悲しみ。他人の喜びは自分の喜び」と言える社会にせねばなりません。 そのような「競争」と「共生」がうまくバランスできた社会をつくるために、私は 3つのことを提案したいと思います。
二〇世紀の福祉の一つの問題点は、町はずれにお年寄りや障害者の大きな施設をつくり、心身に障害のある方を、地域社会から遠ざけてきたことだと思います。私は三年間、福祉の調査で世界をまわったことがありますが、その国の「敬老度合い」は、その国で老人ホームがどこに建設されているかによって決まります。残念ながら、先進国の中で老人ホームが最も町はずれにあるのが日本です。でも、年をとって痴呆症になったり、身体が弱ったら暮らせない地域社会って、本当はおかしいですよね。最も地域の助け合いが必要となり、引越しが症状を悪化させる高齢の時に、お年寄りが見ず知らずの地域に引っ越さざるを得ないのはおかしいですよね。 このような問題点を解決するために、私はグループホームを増やす運動を、過去一〇年間しています。グループホームとは、六 s九人規模の痴呆症のお年寄りなどが介護スタッフと共同生活をする場です。民家を、改造してっくることもできます。一〇〇坪あればできます。痴呆症のお年寄りにとっても、グループホームのような家庭的な雰囲気の中で、スタッフと共に簡単な家事や趣味を楽しみ、残っている能力を活かし、少しでも生きがいや役割を持つことが痴呆症状をやわらげることがわかっています。いくら痴呆症になっても昔からの慣れ親しんだ家事や趣味の能力は残っている場合が多く、何もしないよりは、その能力を発揮したほうが、痴呆症状が悪化しにくいのです。 また、住み慣れた地域にあるので、顔なじみの茶飲み友だちもグループホームを訪問しやすいし、お年寄り本人もたとえ自宅に住み続けられなくても、環境の変化や疎外感が少なくてすみます。
このようなグループホームを小学校区に一つつくる。そうして地域で老いを支えるようにする。私の知っている京都のグループホームでは、最初は「迷惑施設」ということで、グループホームに反対運動があったけれど、グループホームができてからは、近所の子供が遊びに来たり、ボランティアさんが集ったりしています。 グループホームが地域の助け合いの拠点になり、痴呆症のお年寄りへの偏見を改める教育の場になっているのです。「グループホームができると、そこから愛が生まれる」という言葉もあります。小学校区に一つグループホームをつくることにより、助け合いの「共生」の社会をつくるのが私の夢です。 また、お年寄りだけでなく、障害のある方々も望めば地域のグループホームで暮らすことのできる社会を目指しています。 私は、グループホームが地域に増えれば、いじめは減ると思います。今のいじめの原因は、弱い者いじめの社会そのものにあります。三世代同居が減り、お年寄りと接する機会も減り、障害のある方々が地域社会から遠ざけられるから、助け合いの心を子供たちが育むチャンスも減る。 しかし、グループホームが増え、地域で障害のあるお年寄りなどが暮らせるようになり、大人がボランティアとして、弱った方々を支えている後ろ姿を、子供たちに見せることができれば、地域が変わります。その姿から、子供たちは、「弱った人を大事にするのが人の道なのだ」と学ぶでしょう。 温かな助け合いの「共生」社会をつくる起爆剤として、私は、グループホーム運動を進めたいと思っています。
助け合いの社会づくりには、教育が重要です。私が二七歳の時、今から :一年前に生まれて初めて書いた論文は、「子供の施設や学校と福祉施設の合築を!」というもので、京都新聞の創刊110周年記念論文の一席に選ばれました.,その時 .から、私はずっと夢を持ち続けています。これから少子化により、小学校の空き教室・空き校舎(余裕教室・余裕校舎)などが増えてきます。ここを、身体の不自由なお年寄りのためのデイサービスセンターやグルーブホームに転用するという夢です。実際、宇治市の小倉小学校や平盛小学校のデイサービスセンターの例をはじめ、少しずつ増えていますが、まだまだです。 先日も小学校の空き校舎を転用したあるデイサービスセンターを訪問しましたが、小学校一年生の女の子が、お絵かきに来ていました。何を描いているのかとのぞき込むと、車いすのお年寄りの絵をかいていました。小学校の一年生が、車いすやデイサービスセンターという福祉に身近に感じることは、「助け合い」の心や「敬老の心」をはぐくむ上で大切です。 ドイツの教育学者であるシュタイナーは、「子供の教育の場にはお年寄りの存在が不可欠だ。子供はお年寄りとのふれあいを通して、やさしさやいたわりの心を育まれる」と言っています。 福祉教育の必要性が叫ばれ、一方でほ、介護を必要とするお年寄りの居場所がないのですから、まさに、小学校の空き教室・空き校舎を福祉施設に転用することを急ビツチで、進あるべきです。
@Aとも関係しますが、助け合いの社会をつくるためには、まず大人が変わること、そして、次に子供が変わることが必要です。 いま教育改革国民会議などで、「奉仕活動の義務化」が議論されています。私は、「福祉体験学習の義務化」とすべきだと思います。なぜならば、「奉仕を強制する」というのは、どこかおかしいように思うからです。「人に喜んでもらえると、自分も嬉しい」という素直な気持ちをはぐくむことが、教育の目的です。「子供たちに自然な形で、そのような気持ちになってもらえるようなチャンス、機会を提供できればよいと思うのです。 さらに、福祉施設で長年ボランティアをしてきた私の立場から言うと、ときどき子供たちにワッと大勢で来てもらっても、奉仕どころか迷惑な場合もあるわけです。福祉施設に行けば、それだけで奉仕になるというのは誤った考えです、かえって、ボランティアや訪問の受け入れに職員が時間をとられ、施設のお年寄りのお世話が低下することもあるのです。ですから、施設を訪問する子供たちに、あまり簡単に「奉仕」ができると誤解してほしくない .のです。「訪問してやった」という恩着せがましい気持ちにもなってほしくない。しかし、「福祉体験学習」という趣旨ならば、老人ホームに行って、「勉強させてもらった」という謙虚な気持ちになれます。パッと訪問して、相手に喜んでもらえるるほど、福祉は簡単ではありません。しかし、福祉現場を訪問し、福祉を身近に接することは素晴らしい体験であり、勉強です。 実は、私自身も学生時代に児童福祉施設でボランティアをさせてもらったことや、寝たきりで亡くなった祖母と共に暮らしていたことが、福祉の道を歩む大きなきっかけになりました。 ですから、私は「福祉体験学習」を義務付け、推進すべきだと思います。
以上、地方分権、財政再建、産業構造の転換、福祉型公共事業への転換、助け合いの「共生」社会づくり、福祉体験学習などについて、私の思い、二一世紀への抱負を書きました。これは、民主党が政権をとった時の政権構想とも重なります。 以上述べた大改革を行うには、政権交代が不可欠です。 私は、高校時代の恩師である三浦俊良先生から、「社会の雑巾(ぞうきん)になれ。社会のぞうきんになって社会をきれいにする生き方をせよ」と教わりました。この言葉を胸に、私は、福祉の道に入り、児童福祉施設や老人ホームでのボランティアや研究・運動に過去二〇年励んできました。しかし、私は、いま国会議員に皆さんのおかげでならせて頂いて、もっとも汚い世界、ぞうきんできれいにせねばならないのは、政治の世界であると痛感しています。 故・松下幸之助氏は言いました。「政治を正すのは、良識ある有権者と志ある政治家との共同作業である」と。私も、志を忘れず必死で仕事をしますので、どうか皆さん、共に「世直し」に取り組もうではありませんか。今後とも私を導き、お支え下さいますよう、何卒宜しくお願い申し上げます。 長くなりましたが、私の、 21世紀への抱負を書かせて頂きました。 |